So-net無料ブログ作成

『たぶん最後の御挨拶』   [東野圭吾]





オレたちって潔いんだね、って言うと妻が、オレたちって誰? と言う。

オレや東野圭吾だよ。要するに大阪で生まれてサービス精神を持って育ち、全国を移り住み、現在は大阪以外の場所に居を構え、頭の上がらない姉貴がいるような男、と言うと、あそー、と再び妻に笑われた。

エッセイを読むと、つい、作家を身近に感じてしまう悪癖。





『たぶん最後の御挨拶』 東野圭吾/文藝春秋(2007年1月30日 第1刷発行)
DSC00492.JPG


そんな潔い東野圭吾が、エッセイはこれが最後と書いていて、納得。
彼の、デビュー後の苦節10年は、大変だったんだなと思った。
サービス精神旺盛の彼は笑い飛ばしはするが、苦しかったんだな。

『天空の蜂』 の取材に3年、いつでも彼は本気だった。
特に、江戸川乱歩賞への応募での真摯な姿勢には敬服する。
しばらく、東野圭吾待ちであるが、ドラマと映画で、復習しておくかな、WOWOW で。




p181
 推理作家というのは因果な生き物である。小説に限らず、テレビドラマ、映画、舞台など、とにかくストーリーを形成しているものを目にすると、その論理的整合性を検討せずにはいられない。


p233
 もちろん質問される内容は似たり寄ったりである。作品が映画化されてどんな気分かとか、最新作ではどういったことを描きたかったのか、とかだ。しかし同じことばかり質問されてうんざり、なんてことは全くない。先方にとっては初めて質問することなのだ。こっちとしても答えが決まっているから楽だ。その場で悩まなくてすむ。


p234
 不愉快にさせられることが全然ないわけではない。私が一番いやなのは、インタビュアーという立場を利用して、読者と作家の間にあるルールを破られることだ。たとえば次のような質問を受けた時だ。
 「これは個人的にお尋ねしたいんですけど、この小説のラストは、××が○○だったということでいいんでしょうか」
 「で、結局この二人の関係はどういうものだったと解釈すればいいんでしょうか」 
 こういう質問を受けた場合、「それはあなた御自身が考えてください」と答えることにしている。当然だろう。大多数の読者は、作者に直接質問することなどできない。皆、自分で考えているのだ。書かれたものだけで内容を理解するというのが、読書のルールではないだろうか。こちらもそのつもりで執筆している。
 無論、だからこそ私は、自分の作品がどのように誤解して読んでも文句はいわない。誤解されたのは自分の書き方が悪いか、あるいはその読者との相性が悪かったせいだと思うからだ。作家の中には、「読み方が悪い」とか「そういう読み方はされたくない」とかいう人が時々いるが、それもまたルール違反というものだろう。






015.JPG

先月、ご近所で写した。
アゲハチョウは喧嘩するらしく、ハネが破れているのはその証だとか。
ak1-buc さんのブログを読んで知った。



政界再編と言って、北海道の開墾に希望をどう組み込むのか。
玉砕に出た民進党、変だったから別にイイけど、税金、おいおいだ。
若い連中に金を掛けてやってくれ、それと、オレにも。

どうも希望が見つからない。
僅かずつ快方に向かっている腰痛、ワインが一番効くね。
国難突破解散、政権選択選挙、また騙されるのかと思うと、ちょっとね。




ファイト!






ファイト!(132)  コメント(9)