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『星に願いを、いつでも夢を』    [村上龍]





通過するミサイルは落ちてこないのだけど、いよいよ、桂一門ではない米朝の関係が、怪しくなってきた。 本当のことを報道するマスコミの乏しい中、やっぱり、本当のところはどうなるのか、特に、休戦中の南北朝鮮や米朝関係に、果たして日本がどこまで食い込んでいるのか。 心配で、読書が進まない。






『星に願いを、いつでも夢を』 村上龍/KKベストセラーズ(2016年11月30日 初版第1刷発行)
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p188
 日本の大手既成メディアは、少しずつ変化してきている。もちろん良い方向ではない。政党政治が終わりつつあるということも、政策論争に意味がなくなってきているということも、ほとんど報じられない。偏向しているとか、権力に媚びて事実を隠蔽しているとか、そんなことではない。いまだに「格差」を論じる文脈を持っていなくて、たとえば財政や、医療や年金などの社会保障についての「最悪のケース」に言及する方法も見出そうとしていない。おそらく今後改善される可能性はゼロで、ますます内向きになり、国民を慰撫することを優先するようになるだろう。繰り返すが、バカなわけでも、偏った考えに凝り固まっているわけでもない。例を挙げると、社会的弱者に対し「可哀想な人々」という捉え方しかできないということだ。


p199
 メディアというのは、大新聞、テレビのキー局、メジャーな雑誌など、いわゆる「大手既成メディア」のことだが、権力に媚びて偏向しているとか、事実を伝えようとしていないとか、怠慢というわけではない。現実を伝えるための文脈を持っていないというだけだ。ただ、その度合いが尋常ではなくなっていて、しかも「ねじれ」があるために、批判することが極めて難しくなった。「ねじれ」というのは、高度成長もバブル崩壊も遠い昔となり、経済の停滞が異様に長く続き、インターネットなど新しいメディアが登場して、内外の状況の急激な変化に対応しようと、歳を取った女優の化粧が年々濃く厚くなるように、表層だけを繕っているために、問題点がさらに隠蔽されてしまったというような意味だ。だから、批判すればするほど徒労感を覚える。


p203
 今、あらゆるところに「夢」という言葉が氾濫しているが、それは「夢」が消滅しつつある証だと思う。実在しているものについては、あえて語る必要はない。子どもがカウンセリングで「愛情」という言葉を多用するときは、愛情に餓えているのだとある精神科医から聞いたことがある。「夢」が消えつつある時代、どうやって生きればいいのだろうか。睡眠時の夢が非現実であるように、希望や目標をあらわす「夢」も、人に、別の現実、別の人生をイメージさせ、その実現を強く願い、実現に向けて具体的な努力をするように促す。だが、繰り返すが、今や「願い」も「夢」も消えつつある。わたしは、現実を見ようとしているだけだ。





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「そこまで言って委員会」という興味深い番組があって、残念ながら東京では放送されていない。 始めは、やしきたかじんがMCだったが、亡くなってからは、辛坊治郎がMCを務めている。 朝日新聞しか読んでいない人には、腰を抜かしそうな番組だろうが、なかなか面白い。


朝日などが報じない「大問題」より、朝日などが歪める「小さな問題」を、産経新聞が孤軍奮闘報じるのは愉快なのだが、北海道ではコンビニにもキオスクにも置いていない。仕方がないから、読売か、日経を買うことになるのだった。


いよいよ危機が近づいてきたのだろうか。

晴れ男のハレオ君、札幌で、結局台風の風も感じず、午後には快晴だったぞ。




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『どこにでもある場所と どこにもいないわたし』   [村上龍]





想像力を欠くすべての人は現実へと逃避する
                (映画 『さらば、愛の言葉よ』/ゴダール監督 2014年 より)




『どこにでもある場所と どこにもいないわたし』 村上龍/文藝春秋
                                   (2003年4月25日 第一刷発行)
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      最近の龍さんは怒っているのだと、『オールド・テロリスト』を読んで思った。
      今回の作品では、十数年前の村上龍は、イライラしていたんだと思った。
      諦めながらも、イライラして、そして怒っている。
      やはり時代を読み解いている作家だな、と思う。




p185-186(『場所:自分』 あとがき)
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」
 そういう台詞を中学生が言う長編小説を書いてから、希望について考えることが多くなった。社会の絶望や退廃を描くことは、今や非常に簡単だ。ありとあらゆる場所に、絶望と退廃があふれかえっている。強力に近代化が推し進められていたころは、そのネガティブな側面を描くことが文学の使命だった。近代化の陰で差別される人や、取り残される人、押しつぶされる人、近代化を拒否する人などを日本近代文学は描いてきた。近代化が終焉して久しい現代に、そんな手法とテーマの小説はもう必要ではない。
 この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった。社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ。






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     昨日も「世間」から離れて、世俗の接点であるニュースに距離を置いた。
     「考えないということが、思考に悪影響を及ぼすかどうか分からないが」
     と、まるでゴダールの映画の言葉みたいに気取っている。




     『時を超えたアスリート対決』という「BS世界のドキュメント」を見た。

     五輪種目の過去の偉大な選手の記録と競う、という趣向である。
     陸上100m、女子競輪3000m、水泳200m自由形、女子やり投げ、カヌー500m。
     当時のシューズ、トラック、自転車、水着、プール、やり、カヌー、オールを使う。
オリンピックで次々と更新される世界新記録。しかし、人間の身体能力は本当に進化したのか? 現代のトップ・アスリートが往年の名選手と同じ条件で競技に挑み、記録を競う。◆ベルリン五輪でジェシー・オーエンスが出した100m走10.3秒の記録に挑むのは、10秒を切る自己ベスト記録を持つ北京五輪のメダリスト。オーエンスの時代と同じ重くて固い靴を履き、ゴムではなく、砂混じりのトラックを走る。このほか自転車競技、水泳、やり投げなどで、過去の名選手と現代アスリートのバーチャル・ガチンコ対決が行われる。進化したのは人間の肉体か? はたまたシューズやウエアなどの装備なのか。

     協力したアスリートにはご苦労さん、楽しかったでしょ。
     水泳家族にとっては、マーク・スピッツは偉大だったんだと理解した。
     科学だけではなく、練習環境、指導法、技術と、進化しているのだと理解。

     ただ、女子やり投げの、破られない世界記録を出した人は「男?」と思った。
     近年では、やり投げの槍が飛びすぎるので、重心を前に寄せたものに改められた。
     よって、過去の記録は破られなくなったようだ。

     国家ぐるみ、組織ぐるみのドーピングとは違った、面白い番組を見て満足した。


     今日も、「チョイワル生活」である。
     何も考えないで、チョイワルをして生きる3日目・最終日。


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『すぐそこにある希望』   [村上龍]




    桝添君が厚顔無恥と破廉恥の権化と化して、ああいう生き方もあるのだろう。
    すでに週刊誌ネタではないが、母親の介護のことまで掘り起こされている。
    道民には関係ないやと、仙人と化し、夢の世界を彷徨う。



『すぐそこにある希望』 村上龍/KKベストセラーズ(2007年7月7日 初版第1刷発行)
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p72-73
 奇妙なことに、「反省すべきは反省しなければならないと思っています」という弁明には主語がない。いったい誰が反省するのかはっきりしない。反省するのは誰ですか、と大手既成メディアの記者たちは絶対にそういう質問をしない。「わたしは反省しています」という表現と「反省すべきは反省しなければならないと思っています」が違う。後者は主体を曖昧にすることで「反省すべき主体は誰なのか」はもちろん、反省すべき主体はそもそもどんな間違いを犯したのか、それは法に違反したのかそれともモラルに抵触したのか、もし間違いがあったらどうしてそれが起こったのか、というような疑問も曖昧にしてしまう。

 あなたは間違ったのかそれとも間違ってはいないのか、という基本的な質問ができないのはなぜなのか、いまだわたしにはわからない。推測されるのは、そうやって主体を明確にすることがこれまでの日本社会で必要とされてこなかったということだ。決定権とセットになった責任の所在が明らかにされないこととリンクしている気がする。その問題に関して決定権がある人物が責任を取るわけだが、政界にしても、そしてたとえば大手既成メディアで番組を作っているような人たちでも、決定権とセットになった責任をはっきりさせてから仕事を開始するというような考え方がいまだに希薄だ。

 だが決定権を持っていたのは誰かという問いを立てなければ、責任の所在は明らかにならない。





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干し葡萄が大の苦手で、食べられません。だから、六花亭のマルセイバターサンドが食べられずにいました。よく、ご挨拶で頂くのですが、いちど囓ってそれ以降、食べたことがありません。受け取ることが多いのですが、食べられないので損した気分になります。それが、2月に、マルセイバターケーキが発売され、レーズンが入っていないスポンジケーキです。 これなら、貰いますよ私、バター風味たっぷりの、0.1t への道。


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『村上龍の質問術』   [村上龍]




    桝添君が弁護士を引き連れて、説明責任を果たしたと言う。
    記者たちの愚かさは、「辞職しないのですか」という愚問の連続。
    質問が悪いから、桝添君の逃亡を手助けしているに過ぎなかった。




『村上龍の質問術』 村上龍/日経文芸文庫 (2013年10月23日 第1刷発行)
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p 3 (「はじめに」より)
 どういうわけか、わたしたちは、質問の重要性を意識する機会が乏しいし、そのためのトレーニングも十分に受けていない気がする。小学校から、大学受験、それに社会人になるための、あるいはなってからのさまざまな試験や資格取得に至るまで、重要なのは「回答」であり、「質問」ではない。「質問」を考えさせ、採点するようなテストをわたしは受けたことがない。
 (中略)
 現在、さまざまのビジネスシーンで、「質問」の重要性、必要性は増しているように思う。とくに、文化や言語を共有していない海外とのビジネス機会が増える中、あらゆる交渉の場で、「何を聞くか」「どう聞くか」が、成否を分けることもある。「質問すること」の重要性、必要性が増しているのに、そのためのトレーニングを受ける機会がない。





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ワイドショーという、まさに横並びの番組で、井戸端会議に過ぎない者たちをコメンテーターと呼び、根拠のない勝手な放談を流している。そういう場所で、本来は取材記者でもある連中が、マトモな問いを発することもせず、普段から常に質問は、「どうですか」で、だいたい済ませてきた。だから、弁護士が出てきて答え始めると、カリカリするだけで、質問が止まってしまうのだった。



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発問者が勉強不足以前で、問いを発する技術の低さが、あの三島由紀夫賞を受賞したお爺ちゃん東大教授殿に、一喝されて、ブーヒー言ってるだけなのだった。負け犬の遠吠えで、それなら賞を受けなければ良いのにと、勝手なお子ちゃま論理のすかしっ屁。



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桝添君もだが東大よ、強し。バカは下手な質問を繰り返しておれ、オレはリオで東京五輪代表者だもんねーって、吸血税鬼の桝添君は、逃げ切れるのでしょうね。やっぱりここは週刊文春に期待して、家族に聞いて欲しいな、税金で食べた寿司は美味しかったですかって。 小市民連合の不快指数、本日も上昇中。



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『心はあなたのもとに』   [村上龍]




心はあなたのもとに

I'll always be with you, always.


村上龍はエッセイ・評論ばかり読んでいて、彼の小説は数冊しか読んでいなかった。おそらく100年単位で生き残る作家の筈だから、少し読んでみようかと読み始めた。恋愛小説だけど重いし切ないものだった。それでも、最近、大切な人が亡くなり始めて処理しきれない物もあったけれど、対処法というか、考えを持つことが出来たように思う。

作品の中でも言うように、その死によって生まれた心の中の空洞は、その人を自分の中に埋め込んでいくための時間だと言うこと。だから、ずっと考えていて良いのだと、誰かも言っていた。後藤君が死んでおよそ1ヶ月、文章に起こして断片的にまとめてみると、かなり影響を受けていたことを知り始めた。面白い、そう思うのだ。





『心はあなたのもとに』 村上龍/文藝春秋 (2011年3月25日 第1刷発行)
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p228
欧米の富裕層の男は基本的に家庭を大切にする。宗教的な理由もあるが、個人主義の社会なので、歳をとってからの孤独がいかに恐ろしいかを知っているのだ。また莫大な慰謝料と離婚でのエネルギーの損失を考えると、家族とともに良い時間を共有するために物理的な時間と金を投資するのは合理的だと思っている。

p250
どうして男は、この女は自分といっしょにいるほうが幸福になれるはずだと思いたがるのだろう。その女が幸福かどうか、その女以外、誰にもわからない。

p437
信頼は疑いと警戒の延長線上に、長い交渉の末に築かれるという基本を忘れてはならない。




村上龍の最近の文体だろうが、小説なのに評論のようになっていて、彼の猛勉強ぶりがうかがえる。東野圭吾と錯覚するほど上手な運びだけれど、龍さんの方が冷徹で、強引かな。両者とも世に訴えたいことがあり、龍さんはまるで評論のように分析と解説も入れてしまう。東野圭吾さんには少し遠慮があり、きっと勉強不足。



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雨が続き、寒冷前線が近所に停滞しているのだろうか、寒く感じる。私が長袖を欲し、半ズボンだとクシャミばかりが出るのである。キュウリとミニトマトの発育に遅れが出るのではと危惧する。連日の小雨続きで、雑草が、ぐいぐい伸びてきている。私の仕事が生まれたと言うことだな。



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『最後の家族』   [村上龍]




          他人との出会いは、それだけで別の人生の可能性なのだ。
                                  (『最後の家族』 村上龍)


久々に引きこまれる小説を読んだ。 あくまでも個人的に惹き込まれる小説だった。
曾野綾子の『虚構の家』(1974)を発売当初に読んで、自分の家族のことだと思ったことがある。
しかし今回読んだ龍さんの作品の方が、自分の家族の問題に一部関わっていると思った。
解決はなく、出会うための、コミュニケーション能力を持つしかないのだろう。




『最後の家族』 村上龍/幻冬舎 (2001年10月10日 第1刷発行)
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ある中流一家・内山家に起こる様々な出来事を、家族4人のそれぞれの視点で描く。引きこもりやドメスティック・バイオレンスなど、現代がかかえる社会問題をこの家族をとおして、幸せとは何か、家族とは何かを問いかける。

p70
「それはどうかな。コミュニケーションというのは、要するに何かを伝えることだけど、その前提として、ひょっとしたら伝わらないかも知れない、と思うことが大事だって、本で読んだことがある。ひょっとしたら伝わらないんじゃないか、みたいな気持ちがあれば、じゃあどうすれば伝わるんだろうと考え始めるわけだよね。自分の仕事の話で悪いんだけど、宝石のデザインというのも、コミュニケーションだと思うんだ。自分のデザインで、見る人や、お客さんに何かを伝えるわけでしょう。だから、奇をてらうっていうのか、変わったデザインで、単に目立っても意味がないんだよね。この指輪は変わってるねって言われるために、デザインしているわけじゃないんだからね。この指輪はきれいだねとか、この指輪は魅力的だねって、言ってほしいわけだから、自分がデザイン的にやりたかったことが伝わらないと意味がないわけ。相手に伝わらないと意味がない、それがすべてだと思うな」


p105
引きこもりと向き合っている人たちは、説教とか命令とか叱責とか激励とか懲罰とか、そういったものにはまったく意味がないと、みんな骨身に染みてわかっているのだ。


p106
赤ん坊に説教したり、怒鳴ったり、命令を聞かないからと怒ったり、頼みを聞かなかったからと懲罰を加える人は異常だ。母親は、実際に育てていく過程で赤ん坊とのコミュニケーションを学んでいく。育児の本は参考にはなるが、実際には赤ん坊と接してみて初めてわかることのほうが多い。竹村や、精神保健福祉センターの相談員や、親の会のカウンセラーの話を一年以上聞いて、それでやっと昭子は秀樹の態度や言葉の背後に何が隠されているのかに気づき始めた。それまでは焦るばかりで何もわからなかった。


p106
・「お子さんのいいところ」をできるだけたくさん書いてください。
・「お子さんが興味を持っていること・好きなこと」を書いてください。
・今日、お子さんのどんな行動を褒めましたか。
・「お子さんの夢」を書いてください。
・「あなたがお子さんと一緒にやってみたいこと」を書いてください。
お子さんのいいところ、という回答欄は二十個もあった。つまり自分の子どものいいところ、長所を二十個書けということだ。秀樹の長所? 昭子は、以外に優しい面がある、とだけ書いたが、あとは思い浮かばなかった。そのシートは差し上げます、と女性カウンセラーが言った。
「それをコピーしてください。そしてできればお父さんも一緒に、一週間に一度くらいですね、そのシートに記入してみてください。親が子どもを肯定してあげないと、引きこもりの本人は、誰からも肯定してもらえないんです。あなたが書いた答えの、意外に、とはどういう意味か、どういうときに優しさを感じたのか、そういうことも書いてください」


p117
疲れているだけでは人間は怒りださない。プライドが脅かされる、つまり生きることに困難さを感じたときに人は怒りだすのだと、カウンセラーに教えられたことがある。


p270
ビジネスものの漫画とかテレビだったら、おれたちのような熱血の営業チームが新しい取引先を開拓して、逃げ切ろうとする役員派閥に勝利を収めて終わるんだろうが、現実は違う、巨大な有利子負債は熱血なんかではどうにもならない。世の中に活気がないのはそれが原因だ。つまり活気なんか何の役にも立たないとみんなどこかで気づいているのだ。銀行が借り換えに応じなかったら、活気があろうとなかろうとそれで全部終わる。


p282
「女性を救いたいというのは、DVの第一歩なんです。救いたいという思いは、案外簡単に暴力につながります。それは、相手を、対等な人間として見ていないからです。対等な人間関係には、救いたいというような欲求はありません。彼女は可哀想な人だ。だからぼくが救わなければいけない。ぼくがいないと彼女は不幸なままだ。ぼくがいないと彼女はダメになる。ぼくがいるから彼女は生きていける。ぼくがいなければ彼女は生きていけない。
 そういう風に思うのは、他人を支配したいという欲求があるからなんです。そういう欲求がですね、ぼくがいなければ生きていけないくせに、あいつのあの態度はなんだ、という風に変わるのは時間の問題なんですよ。他人を救いたいという欲求と、支配したいという欲求は、実は同じです。そういう欲求を持つ人は、その人自身も深く傷ついている場合が多いんです。そういう人は、相手を救うことで、救われようとします。でも、その人自身が、心の深いところで、自分は救われるはずがないと思っている場合がほとんどなんです。自分は救われることがないという思いが、他人への依存に変わるんです」


p290
 父親はあくまで大学に行けと言うだろう。大学に行ったら幸福で充実した人生が送れるということを証明してほしいとわたしは言う。父親は証明できないだろう。だってわたしの人生なんだから、証明できるわけがない。考えてみれば変だ。どうすれば充実した人生が送れるかわからない人たちが、子どもにいろいろとサジェスションする。準備した最後の台詞は、わたしはおとうさんのために生きているんじゃない、というものだ。できれば最後の台詞は言わずに済ませたかった。


p322(あとがき)
この小説は、救う・救われるという人間関係を疑うところから出発している。誰かを救うことで自分も救われる、というような常識がこの社会に蔓延しているが、その弊害は大きい。そういった考え方は自立を疎外する場合がある。






100年目も1年目のように Fresh

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なんば駅の階段の広告塔が、真田丸から変身していたGW半ば。
むかし。中学2年のころ、帝塚山学院中等部の水泳部の女の子とデートしたことがあるけれど、まったく違う世界のお嬢ちゃんだった。高等部のお姉さんは優しかった。 みーんな、今はおばちゃんから、さらに進化形なんだろうな。 時間は一方通行を前進中だ。


桝添がセコいとかバカだとか言ってるうちは楽しいかも知れないけれど、それも段々飽きてきた。次のターゲットは誰なんだろうと思いつつ、月刊の文藝春秋は図書館にあるけれど、週刊文春は置いていない。 楽に立ち読みのできる無防備な書店が、イオンモールの中にあった。 よし、自転車で行って立ち読みしてこよう。 そして今日の昼はビーフカレーを作ることに決めた。


自分の昼ご飯は自分で作る。 なんて美しい自立なんだ、オレって。

まだモヤモヤが消えないけれど、後藤君、四十九日が過ぎるまで心をボンヤリさせておくよ。



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『オールドテロリスト』   [村上龍]




村上龍は怒っているのだと思う。
龍さんのエッセイ、評論は、ほとんど全て読んでいて、波長が合い、影響を受けている。
しかし、小説を読むのはこれが3冊目か、4冊目である。

『限りなく透明に近いブルー』、『海の向こうで戦争が始まる』 と、始まりの2冊は読んだ。
それ以降、私自身がある程度、年を重ねるまで読むことはなかった。
30年以上の時間を経て読み、龍さんは怒っているのだと思った。





『オールドテロリスト』 村上龍/文藝春秋 (2015年6月30日 第一刷発行)
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p132
「(前略) 誰もが生き方を選べるわけではない。上位の他人の指示がなければ生きられない若者のほうが圧倒的に多く、それは太古の昔から変わらない。それなのに、現代においては、ほとんどすべての若者が、誰もが人生を選ぶことができるかのような幻想を吹き込まれながら育つ。かといって、人生を選ぶためにはどうすればいいか、誰も教えない。人生は選ぶべきものだと諭す大人たちの大半も、実際は奴隷として他人の指示にしたがって生きてきただけなので、どうすれば人生を選べるのか、何を目指すべきなのか、どんな能力が必要なのか、具体的なことは何も教えることができない。したがって、優れた頭脳を持ち、才能に目覚め、それを活かす教育環境にも恵まれ、訓練を自らに課した数パーセントの若者以外は、生き方を選ぶことができるわけがないし、生き方を選ぶということがどういうことなのかさえわからない。そういった若者にとって、人生は苦渋に充ちたものとならざるを得ない。苦痛だと気づいた者は病を引き寄せるし、気づかない者は、苦痛を苦痛と感じないような考え方や行動様式を覚える。同じような境遇の人間たちが作る群れに身を寄せ、真実から目を背けるのだ。
 病を引き寄せる若者のほうが、誠実であるのは言うまでもない。気づかない者でも、あるとき突然、真実に目覚めることがある。突然の目覚めによる苦痛は耐えがたいから、新興宗教に逃げ込む者も多いし、死を意識し、死を望む者もあとを絶たない。やがて彼らは、苦痛しかない人生だったら死んだほうがいいと、心からそう思うようになる。死は、苦痛からの解放だから、彼らは自分を殺すのを何とも思わないし、他人を殺すことも善だと考えるようになる。善は急げ、ということわざを、彼らは迷わず実行する。彼らは簡単に死ぬし、簡単に人を殺すようになる」
 アキヅキの話には異様な力があった。 (後略)






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全565ページ、1800円は安いかな。 と言っても、図書館で借りたんだけど。初出は、「文藝春秋」20011年6月号~2014年9月号である。 長い連載だったのだが、連載のお陰で、読者の緊張が維持できる作品だと思った。始めの方は、東野圭吾と錯覚する展開と語り口だったが、違うんだと、何度か否定した。

ある意味で恐い問題提起だが、日本国内でテロのあった頃の、イノチガケの緊張感は現在の政治家にはなく、しかし根こそぎ日本を造り替えねば、あるいはゼロにして再建せねば、もうこの国は衰退が確実だと、おそらく気づいた龍さんが、本当に怒っていると思った。

・・・サミット、大丈夫かなぁ。



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『ラストワルツ』   [村上龍]




かつて村上龍の本は書店で購入していた。生徒への懸賞に使う時はブック・オフで購入していたが、定価で購入すると言うことは、村上龍を応援し、彼の生活を支えているという、ファンとしての姿勢であった。しかし、退職して、年金がまだ手に届かないこの時期、断捨離の成果もあるが、本は図書館頼みである。




『ラストワルツ』 村上龍/KKベストセラーズ(2015年5月5日 初版第一冊発行)
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p174
 キューバの音楽家たちは、貧しいが非常に優秀だ。なぜかというと、まったくシンプルな理由なので白けるかも知れないが、ものすごく音楽に対して熱心で、信じられないくらい勉強し、練習するからだ。ハバナの国立芸術学校を訪ねると、寮で大勢の学生がえんえんと楽器の練習をしているのを見ることができる。彼らは競争が激しいので、トップバンドから誘われるために、一日8時間くらい練習すると言っていた。一日に8時間も楽器の練習をするのは簡単ではない。そんなトレーニングを続けたミュージシャンだけが、トップバンドに誘われる。才能とはそういうものだ。一日8時間の練習を何年も続けることができる、それが才能で、それ以外、才能というものは存在しない。


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 治安が維持できなくなるほどの社会不安が起こるのは、政治の機能不全が前提となるが、そのためには経済が破綻していなければならない。経済成長が続き、国民の生活が安定し、将来に希望が見えるときは、どんなバカが政治をやっても国が乱れることはない。


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 最優先されるべきは教育だろう。日本の教育は、ごく一部の恵まれた層を除いては、旧態依然としたシステムのまま、放っておかれている。経済力による格差も広がり、それが固定化されつつある。貧乏な家庭に生まれた子どもでも経済的に成功する要因・システムが築かれていないし、政治的には模索されてもいない。そんなことをしても選挙に勝てないからだ。






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サイゼリヤが市川で生まれ育った店だと言うことは、かつてカンブリア宮殿で見て知っていた。札幌にも10店舗以上あり、生徒を連れて安上がりに終わらせるのにも使うし、喫茶店代わりにして作戦会議用に使うこともある。客層は上等ではないが、株主優待のオリーブオイルは上等だし、市川発祥だし親近感を持っている。


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コルトンプラザから本八幡方向へ、次女と妻の3人でぶらぶら歩いていたら、伝説の1号店があったのだ。既に国内では1000店舗以上展開し、中国を中心にアジアにも店舗網を展開している。中国での出店100店舗を超えた現在、苦戦を強いられているようだが、応援したいと思うのだ。

CoCo壱番屋の冷凍カツを廃棄せずに転売協力した「みのりフーズ」の代表が、善人ぶっている姿を見るにつけ、安さを売りにする店をまず疑うようになってしまった。「社会貢献企業としての」と自称するサイゼリヤには、みのりフーズの父っつあんに騙されないように注意して貰いたい。



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『おしゃれと無縁に生きる』   [村上龍]




成績の良い少年が、冬休み中の講習に出ていた時、読書傾向を尋ねた。彼は図書委員をしていて、自分の好みであるファンタジーと呼ばれる物を読み、学校図書にもたくさん買わせていた。現実逃避も良いがという意味で、それも良いがと言い、しかし、人生の影になる部分を掘り下げる読書も必要だよと、伝えたのだった。


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しかし私も、8冊ばかり、後期の予算で買って貰っていた。学校が買ってくれた分、その10倍以上の本を学校の図書館に寄付をする。それでチャラにしてもらおう。そして、やっぱり、選挙権を在学中に手に入れる少年たちには、現実を「考える」という、生々しいことをやり続けて貰いたいと思うのだ。





『おしゃれと無縁に生きる』 村上龍/幻冬舎(2015年8月5日 第一冊発行)
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p42
 わたしたちは、「ほめられたい」「けなされたくない」という本質的な欲求を持っている。それは社会的な動物である人間の特徴であり、野生動物はそんな欲求はない。
 「ほめられたい、社会的に評価されたい、尊敬されたい」というのは有名な「マズローの欲求五段階説」の四番目に位置するものであり、その裏返しとして、「評価を落としたくない」「軽蔑されたくない」「けなされたくない」という、裏の欲求とでも呼ぶべきものもある。粉飾決算をする人・組織は、その裏の欲求に突き動かされて、つい手を染めてしまうのだと、わたしは個人的にそう考えている。


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 「収入や賞賛や尊敬や名声などを得るためにやるのではない。自己の向上のため、社員の幸福のため、そして社会貢献のために必死に仕事をするのだ」みたいなことが、よく言われる。しかし、その崇高で理想的な考え方の背後には、当然「ほめられたい」という欲求がちゃんと潜んでいる。そして、その欲求は、決して間違っているわけでも、悪意のあるものでもないのである。







翳りゆく街並み

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年の初めに柴又の帝釈天から歩き、私鉄の線路を越えて、コンビニを探した。そのおり、年季の入った、ほっかほか弁当の店があった。しみじみと眺めてしまった。まだそのころは脳天気に、4月以降の、私の働く場所がないなど思いもせず、上から目線で古びた建物を眺めていた。

教師の再任用なんて、落ちていた石ころの再利用みたいな物で、おそらくどうでもいいのだろうと思った。村上龍ではないけれど、ほめられたい以前の「認められたい」という欲求が強くある。しかし、「一億総活躍社会」から、自分は除外されているんだろうなという、疎外感だけが、いまはある。

一昨日、校長から伝えられたことは、今より遠い学校で、もっと治安の低下した学校ならあると言う。石ころ扱いをされても、オレにだって誇りはある。自主的な退職を申し出させる、むかしは他人事だった「壁際族」に自分はなっているのだと、思い知る。オレの生きる世界こそ、ファンタジーだぜ。



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